dj sniff

テキストと音により構成された約8分の音声作品です。dj sniffさんは、杉浦さんの作品に呼応して、ターンテーブルでレコードの溝を消すという作業を行いました。針の代わりに取り付けられたカッターナイフ、紙ヤスリ、そして消しゴムは、レコードの表面を削りながらノイズ音と共振音を鳴らします。また、時折水を垂らすことで摩擦は増し、ターンテーブルの回転は不規則になっていきます。杉浦さんの写真とも通じる、物質が持つ記憶の手前にあるものにアクセスしようとする試みです。

消されることで共振する記憶の手前にあるもの 杉浦篤の作品への応答

もしレコードに自意識があるならば、再生中に「この曲を覚えている」と言うだろう。それは私たちにとっては簡単な仕組みの及ぼす効果かもしれないが、そのレコードにとっては奇跡的な能力、つまり「記憶」として認識されるだろう。

ドイツのメディア学者のフレドリヒ・キットラーはその著作『グラモフォン・フィルム・タイプライター』でこのように語る。

彼が言う「簡単な仕組みの及ぼす効果」とはレコードで音楽を聴くことがレコード針が過去に旋盤が刻み込んだ振動の起伏をなぞることで可能になるという仕組みのことだ。

キットラーにとって音楽の再生とはレコード針があらかじめ定められた道筋を通ること、すでに体験したことの再体験、過去を思い出すことでしかない。

だが、再生を長い時間をかけて繰り返してゆくと、レコード針の先端はやがてノミのような形に変形をし、ただ盲目的にたどるはずだった音の溝を次第に削り落としてゆく。

その結果、音楽は不明瞭になり、いずれ消滅してしまう。

デジタルファイルとは違い、レコードに記録された音楽を表象する際にはメディアと再生機械の間で摩擦が生じる。

再生がそのものを消し去ることを伴うというアナログにおけるアクセスとアーカイブの矛盾はここにある。

しかし音楽が消滅しても何も聴こえないわけではない、そこから聴こえるのはザラザラとしたノイズ、音楽未然の、つまり録音される前にあったレコードの物質的な音。

またレコードを聴くということは過去の再生だけではなく、あらたに聴こえるものを刻み込んでゆくということでもある。

キットラーが言う「私はこの曲を覚えている」というレコードの自意識はいずれ「私は、この曲を覚えていることを今、新しい音の発見とともに記憶をする」へと向かう。

杉浦篤さんの作品は写真に記録された思い出に繰り返しアクセスする過程で色あせ、剥がれ、フォルムが崩れて残っていったものたち。その断片化された記憶の破片のようなものに私たちは何かを感じ、作品として体験する。

しかし この「何か」と何だろうか?

私たちは他人の聞いた音を聞くことができないように、どこまでいっても杉浦さんの記憶、思い出すものには近づけない。

そして私たちが作品だと感じるものも、杉浦さんの思い出すという行為の残滓(ざんし)であるという以上に、それを作品として規定する何かあるのかも分からない。

では彼の作品を体験するとはどんなことなのだろうか?

それはアメリカの実験音楽家のマリアン・アマシェの作品と比べることで近づけるのかもしれない。

アマシェはある音に反応して私たちの耳自体が音を発する誘発耳音響放射という特殊な現象を作品に取り入れた。

彼女の作品では電子音のパターンを繰り返し聞くことで私たちの耳の奥の器管が反応し、自ら音を発する。

その結果、私たちは録音された音源には存在しない、私たちの耳の中だけに立ち現われる「第3のトーン」を体験する。

この耳鳴りのような音の音色や周波数はそれぞれの個人によって違う。

杉浦さんが繰り返し行う思い出す行為の痕跡が、まるでアマシェの電子音が耳自体の音を鳴らすように、記憶の奥底の何かを誘発する。

私が感じるのは個別の記憶の手前にあるものの揺さぶり、共振のようなもの。

私は杉浦さんの作品に呼応するためにターンテーブルでレコードを消すという作業を始めた。

それは再生のメカニズムで録音された音楽の底にあるヴァイナル、紙、モーターの音を聴くということでもあった。

ピックアップに取り付けられたカッターナイフ、紙ヤスリ、そして消しゴムはレコードの表面を削りながらノイズ音と共振音を鳴らしてゆく。

時折、水を垂らすことで摩擦は増し、ターンテーブルの回転は不規則なってゆく。

消されてゆくレコードは高校生の時に放送室にから盗んできたもの。いや、神保町のトニイレコードで買ってきたものだったかもしれない。

記憶があいまいだがとにかくまだ16か17歳頃、DJになることを夢見てレコードならなんでも物色して手に入れていた頃。

その中でも特にお気に入りで、45回転を33回転に落として聴くのが好きだった曲。

作業しながらそんな思い出が再生される。

ターンテーブルが回転するたびにレコードはすり減り、あいまいな記憶から重ねてきた年月を自覚する。

レコードを聴いて可能なのは過去の再体験ではなく、現在の中で、あらたな体験の再生産でしかない。

写真からレコードへ、

個別の記憶から記憶の手前にあるものへ、

過去から現在へ、

今聞こえている私の声と音が

杉浦さんの作品が内包するものを少しでも増幅し、さらに伝播(でんぱ)してゆけるならば、

大事なレコードも惜しくはない。

2020年8月6日
dj sniff

作品《消されることで共振する記憶の手前にあるもの 杉浦篤の作品への応答》
サウンド、テキスト、写真、2020