華雪

リ・ビンユアンのパフォーマンス映像を見ていた華雪さんは、小さい板を濁流に向かって掲げ続けたり、橋の上での側転を何年も続けたりと、シンプルな同じ行為を繰り返す姿に共感しました。漢数字の「一」を、約2メートル × 1メートルの大きな和紙に、繰り返し書くという創作を行いました。「一」を書いた上にまた「一」と書く、ということを繰り返していくと、紙の表面が毛羽立ち、最後は岩の肌のようになったということです。

kasetsu

線を引く――「一」を書く

映像がはじまる。画面を見つめながら戸惑う自分がいた。
どの作品も彼がなにかしら行為を繰り返し、止めることで映像は終わる。

ただひたすら濁流の中で一枚の薄い板――画板で流れを受けとめようとする。あるいは古びた橋を側転で行き来する作品は、毎年撮影され、タイトルを見ると、《橋が壊れるまで》(2012〜)とあり、どうやら橋が壊れるまで側転を続けようとしているらしい。

彼の作品に触れ、当初、目に見えないなにかと抗っているかのような彼の姿にユーモアを感じた。けれど何度も見つめているうちに、どういうわけか目頭が熱くなってきて、最後には胸が締めつけられるような思いにさえなっていた。なにに心揺さぶられているのか考えあぐねたまま、時間は過ぎた。

リさんの作品をひとつ、またひとつ見ていくと、素朴な疑問が浮かぶ。彼はなにを待っているのか。それとも待ってさえいないのか。

キュレーターの金澤韻さんと話している際、彼女がリさんの作品について発した「線を引く」ということばが印象に残った。
そのことばを踏まえ、リさんの作品を見ると、彼の行為そのものが、線を引く――定められた唯一の線ではなく、まず仮の一本を引いて、確かめ、また新たな線を引くことを繰り返しながら、今、自分が置かれている〈場〉を確かめようとしているのではないかと思えてきた。

リさんの作品の軸とも思える繰り返される行為は、同じ字を繰り返し書いて作品を制作してきたわたしにとって身近だ。

あるとき、ひとつの字を書くワークショップを見学に来られた小説家から、「ほんとうにずっとみんな同じ字を繰り返し書いているの?」と尋ねられた。3時間のワークショップと伝えられていた小説家の顔には信じられないという表情が浮かんだ。とっさにわたしは「そうです」と答えてしまった。けれど後になって〈同じ〉の捉え方が違っていることに気がついた。
同じ行為を繰り返すときに肝心なのは、繰り返すことで〈同じ〉とされるものの微細な差異を見つめることだ。

漢字の「一」の字は、線を引くことで目の前に現れる。その象形文字は、なにかを数えるための木片のかたちだとされている。そこから「ひとつ」、「ひとり」、「ひとたび」、「(一よりはじまる意味から)はじめ」、「(一にまとめる意味から)すべて」といった意味が生まれた。
「一」の字を繰り返し書く――「線を引く」ことで、わたしもまた自らの足元を確かめてみようとした。書き重ねるうちに、紙が激しく毛羽立ち、そこには太い一本の線のようにも、岩のようにも見える黒い塊が残った。

「一」を書いてしばらくしたころ、リさんから便りが届いた。最後に添えられた一節を読み、そこに彼の作品に心揺さぶられた理由があるような気がした。

我很多作品都像生活中的一个片段,我所展现的不是一个故事,而是某个情节
(私の作品の多くは人生の断片のようなもので、見せたいのは物語ではなく、ある物語の一場面だけなのです)
作品《線を引く—「一」を書く》
書、テキスト 2020