中川美枝子

視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップのスタッフである全盲の中川美枝子さんは、『悪夢の続き』に対してテキストで応答しました。テキストは、ワークショップのメンバーと一緒に映像を見て、見えているもの・見えていないものについて議論したことを踏まえて執筆されました。自分のことを人前で話すことについて、どきっとさせられる応答となっています。テキストは音声読み上げでもお聞き頂けます。

蓋の向こうからあなたへ

なぜ人は眠っているときに夢を見るのでしょうか。理由はまだ解明されておらず、いくつかの仮説があるそうです。そのうちの一つに、「人は眠っている間、脳が記憶を整理しているときに夢を見るのだ」という説があります。夢の中には、自分では想像もつかないような内容のものもありますね。しかし、どれほど突飛な悪夢であったとしても、それは自分の頭の中の多種多様な情報の断片が連なってできたものである、とのこと。たしかに、夢は自分で見るものだから、「夢が自分の記憶と密接に結びついている」という仮説は、とても説得力があります。

だから私は、自分の夢について話すのが嫌いなんです。
だって、この仮説が正しければ、それ、自分の中身をさらけ出すってことだから。
自分が隠しておきたいものを、知らないうちに覗き込まれちゃうかもしれないってことだから。

人から夢の話を聞くのは嫌いじゃありません。普段は見ることのできないその人の一面を見られる気がするからです。でも、そんなの私の自分勝手ですよね。

じゃあ、人は私の夢の話を聞いたら、どう思うでしょうか。
自分で見て怖くなった夢について私が話したら、私の中のどのような一面が現れたと、あなたは考えるでしょうか。
そもそも私が見た夢なんだから、
自分のものとして取っておいてもいいじゃありませんか。

だから、たぶん私だったら、本当に怖かった夢について素直に語ることはしないと思うんです。いざとなったら、「あたしって変だよね(笑)」って笑い飛ばせるくらいの話をつくってしまう。

ここまで話してきて、一つ思い出したことがあります。高校の国語の授業で中島敦の『山月記』を読んだときのことです。「自分の中の「虎」について文章を書き、みんなの前で発表してください。」という課題を先生から出されました。言い換えれば、「普段から自分のなかに秘めている、強い自尊心について話しなさい」ということです。「いやな課題だなあ」と思いつつ、優等生になりたい私は深く考えることもせず、先生に嫌われない程度に適当にぼかした「虎」を書いて、みんなの前で話しました。
この課題を本気で嫌がっていたクラスメイトもいました。「こんなことを生徒に発表させるなんて!」と怒っていた友達もいました。当時の私にはその子たちの気持ちが今一つわからなかった。でも、そういえば『山月記』の「虎」だって、自分の境遇を親友に告白するときは草むらに姿を隠していますもんね。結局は全員が自分の「虎」について語りましたけど。
ちなみに私の「虎」は、「それって「虎」か?」とあっさり笑い飛ばされてしまいました。「虎」として受け止めてもらえなかったのです。たしかに、はっきりと書くことはしませんでした。だって恥ずかしいじゃないですか、普段から頑張って隠しているものなんだから。でも、書かなかったわけじゃない。私だって、自分だけの「虎」を少しはみんなに見せたつもりだったんです。

「話して?」と頼まれたからと言って、自分の中にとどめておきたいものをありのままに話せるほど、私は素直じゃありません。でも、決められたルールに逆らえるほど強くもないです。けれど、相手には私のことをわかってほしいとも思います。
「聞いて?」と頼まれたときはどうでしょう。もちろん、一生懸命に耳を傾けはします、聞いたら苦しくなってしまうようなことであっても。「わかって?」と頼まれたときには、もちろん理解しようとします。その代わりに、「ごめん、難しくてわからない」とはちょっと言えないけど、頭が追い付いていない私のことを理解してくれないかなとも思ってしまいます。「受け止めなさい」と指示されたときには、とりあえず両手を差し出します。同時に、「私には重すぎて受け止めきれません」と口に出せない私のことも受け止めてほしくなる。
「無理だ」と思っても、腑に落ちたような顔をしてうなずいてしまうところが私にはあります。でも、無理している私にも気づいてほしい。

つまり私は、そこにルールがあれば、何かリクエストをされれば、それが納得のいかない内容であったとしても、まずは期待されている通りの自分としてその仕事をこなそうとします。「「虎」について話してください」と言われれば、合格点をもらえそうな原稿を考えるし、「自然な感じでお願いします!」と頼まれればナチュラルな笑顔をカメラの前でつくろうと試みます。誰にも知られたくない、いや本当は、わかってほしいんだけど、たぶんわかってもらえない自分の中身に蓋をしてでも、要求にこたえようとするでしょう。けれど一方では、蓋の内側にいる私のことも見つけてもらいたい。
だから、息苦しい…。

誰かのカメラが、私の蓋をずっと映しているとします。
カメラの向こう側には、いろんな目と耳があるわけです。
ひょっとしたら、私の蓋が私自身だと思われるかもしれないし、
とっくに蓋の向こう側を見透かされているかもしれない。
蓋の向こう側の私について、勝手な想像されているということもあり得ます。

それでも私はきっと、蓋を完全にあけ放つことはしないでしょう。
だって、素のままの自分を自分の中にとどめておきたいから。
常に、求められている自分でいたいから。

そういえば、
さっきからこの話を聞いていらっしゃるあなたは、どちら様でしょうか。
声も出さず、姿も現さず、
カメラのレンズの向こうから、ディスプレイのそちら側から、
視線と耳だけをこちらに向けていらっしゃるあなたって、いったい誰なんでしょうか。

作品《蓋の向こうからあなたへ》
テキスト、2020年